従量電灯A

ななころびふて寝の日々

日記―2022/08/15(私の大事にしているポリシー・精神性について)

今日も色々あった。悪いことが多かったのであまり振り返りたくはないが…

早起きしていれば獲得できたチャンスを逃したし(同じようなことが以前あったのに反省を活かせなかった)、いかに世間の時間に合わせることがチャンスに繋がるかを実感した。正直もっと自由に時間を設定できる世の中が良いが。

 

でも、今まではもっと落ち込んでいたものが多少マシになったような気もする。どう考えても起きていなかった自分のせいだし(仮に相手のせいでも相手に怒りをぶつけるわけにはいかない)、落ち込まないわけではない。浅いキズで済んだというか。

でも、仮に完全に昔のように元気な心を取り戻したとしても、いつ悪い状態に戻ってしまうか分からないという不安はつきまとう。それは、一度精神を病んでしまったことで、大切にしたい自分のポリシーが世間一般では少数であることと、それがいかにもろく壊れやすいものかということがあぶり出されたからだ。

 

武士は食わねど高楊枝、ではないが(武士の家系でもないし)、私の中では立派な精神性を持つことがかなり重要になっている。これについてはごく自然なものだと思っていたが、改めて考えてみると、たとえ貧しくても、身体がどうなっても頑張れば維持できるのが精神性だからなのかもしれない、と思ったりした。

正直、どれほど立派な精神性を持っていても、ガンジーレベルにならなければ資本主義社会では全然評価されない。ごく少数は支持してくれるかもしれないが、この程度の精神性で例えば生活を助けてくれるほどまで支持されるとは思えない。もっと具体的な、学歴や容姿や所有資本で人を評価する人が多いと感じる。

確かに、目に見えるものはとても分かりやすいし評価軸にするのは簡単だ。容姿を売りにしている芸能人なら、まぁある程度は容姿で判断されるのも当たり前かもしれない。だから多分、多くの「一般人」はそれを指標にするのだと思う。でも、その人を真に、長期的に評価できるのは生き方やポリシーだと思うし、ぼくはできるだけそこで判断したいと常々思っている。そう考えていても、どうしても容姿に邪魔をされるのだが。

 

以前、モテない自分について母親に話したことがある。その時母親は、母親の友人の息子の例を出して、真面目にやっていればいつか運命の人に出会って、自然と話が進むと話してくれた。今でも全然信じていないが、いつの日か、本当だったと思える日が来るだろうか?